社会福祉法人
ベタニヤホーム

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100th
Anniversary

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社会福祉法人 ベタニヤホーム

100th Anniversary

100年のあゆみ

History

1

ベタニヤホームのはじまり

  • 被災した方々に手を差し伸べる

    • 1923(大正12)年9月1日午前11時58分、相模湾北西部を震源とするマグニチュード7.9の大地震が起きた。関東大震災である。震災発生時刻が昼時であったことと重なり、多くの火災が発生、大規模な延焼火災に拡大した。死者・行方不明者は10万人以上、うち焼死者が約9割と甚大な被害をもたらした。

      震災直後、日本福音ルーテル教会はただちに救済委員会を設置し、本田傳喜牧師、A.J.スタイワルト宣教師ほか2名を救済委員に任命した。実際の救護活動事業は、在京の前記2名に委嘱された。

      救護活動事業を開始するにあたり、最も困難だったのは活動できる場所を手に入れることで、連日連夜探し回った。数週間後に東京市麻布区(現:東京都港区)のスペイン公使館の敷地内を借り受けられることになり、罹災した高齢者や母子の救護を開始した。高齢者だけではなく、母子の救護を決めた要因の一つとして、被災地視察中に「真黒こげになった母子の姿」を見て、「母は子を背負い頭をあげて助けを求めている」「また何かを訴えているかのようであった」と感じたことがあったと、本田傳喜牧師は回顧している。(『日本福音ルーテル教会、教会七十年のあゆみ』)

      日本福音ルーテル教会の迅速な行動や事業を後押しするために、諸外国(アメリカ、中国、インドなど)のルーテル教会から多大な支援金が送られた。これによって、被災した方々に救いの手を差し伸べることができた。この実践こそが、キリストが示した隣人愛の精神であった。多くの祈りに支えられたベタニヤホームは、この時から100年の歴史を歩むことになる。

    • 大震災後の麻布緊急一時保護施設と老人・母子(1924年頃)
      大震災後の麻布緊急一時保護施設と
      老人・母子(1924年頃)
      A.J.スタイワルト宣教師
      A.J.スタイワルト宣教師
      本田傳喜牧師
      本田傳喜牧師
  • 母子ホームと菊川幼稚園の建設

    • 数か月後、スペイン公使館敷地内での救護活動は、ベタニヤホームのはじまり第1章土地の借用期限を迎えてしまった。1924(大正13)年3月、内務省より東京府を介して委託を受け、救護した母子の居場所を設けるべく、東京市本所区柳原町(現:東京都墨田区江東橋)に母子ホーム(現:母子生活支援施設ベタニヤホーム)を建設した。

      また、この母子ホームは単に母子の住まいを提供し保護するだけではなく、幼児教育の必要性を感じたことから、幼稚園(現:菊川保育園)を併設した。その幼稚園は母子ホームに住んでいる子どもだけではなく、地域に暮らす一般家庭にも開放し、広く幼児教育を行った。

      これらの事業は、母の自立や子どもの健全育成、地域に根差した支援を行い、今日の児童福祉施設としてあるべき姿を示唆した。この姿は2003(平成15)年に制定したベタニヤホーム憲章そのものであり、現在まで続く事業の礎となっている。

  • エーネ・パウラスによる事業運営の基礎作り

    • 1929(昭和4)年に、日本福音ルーテル教会は救済委員会を東京社会事業委員会へと改編した。そして母子ホームと幼稚園の管理をこの会に委嘱したことをきっかけに、翌1930(昭和5)年、熊本県の「慈愛園」で従事していたエーネ・パウラス(以下、A.パウラスと表記)を東京社会事業委員会に委員として加える決定をした。

      A.パウラスは、今日の社会福祉法人ベタニヤホームの基礎を築いた宣教師である。1891(明治24)年2月、米国ノースカロライナ州ババーに9人きょうだいの6番目として誕生した。父親は彼女が8歳の時に病没しており、信仰深い母親の手一つで育てられ、「人のために働くことを教えられた」と話している。その後、学業にも励み、コロンビア大学とホワイト聖書学院で勉学した。コロンビア大学では幼児教育や社会福祉事業を専攻し、家族主義の小舎制養護の理論を学んだ。

      大学卒業後、すぐに来日した。1920(大正9)年に佐賀県小城町(現:佐賀県小城市)にあるルーテル教会で宣教活動を行ったのち、「小城幼稚園」(現:小城ルーテルこども園)と「佐賀幼稚園」の責任者となった。後には、熊本県の「慈愛園」で姉と福祉事業の発展に取り組んだ。A.パウラスが優れていた点を、姉は「慈愛園の保育部門の基本方針や基礎作りは妹(A.パウラス)の功績によるものである」と語っている。(『愛と福祉のはざまに』)

      その秀でた才能を活かし、A.パウラスはナースリー・スクールを開設した。ナースリー・スクールとは、幼稚園入園前の乳幼児を対象とした保育施設である。現在では当たり前のようにある乳幼児事業は当時、日本において先駆的な事業であった。

      「慈愛園」で姉と協力し、福祉事業発展に尽力している時に、宣教師会議により東京に転勤を命じられたのである。

      こうしてA.パウラスは母子ホームと幼稚園の責任者となって、今日に至る「社会福祉法人ベタニヤホーム」の事業運営の礎を築いた。A.パウラスは千葉県市川市国府台に住居を構え、そこでも精力的に活動を行った。1931(昭和6)年には自宅を開放し、母子ホームの虚弱児に対して療養支援(虚弱児児童養護所)を行った。その後、保育事業を展開した。これが現在の「社会福祉法人千葉ベタニヤホーム」の設立へつながった。

    • A.パウラス氏と子どもたち
      A.パウラスと子どもたち
      A.パウラス氏
      A.パウラス
      内海季秋牧師
      内海季秋牧師
  • 母子ホームの整備

    • 責任者となったA.パウラスは、母子ホームの施設建物の改築、整備を行った。しかし、非常に残念なことに、どのような建物だったのか、当時の写真や図面は現存していない。また、責任者としてのA.パウラスの活動の詳細は不明である。

      ただ、当時の生活の様子やA.パウラスが何をしていたか、『ベタニヤホームのはたらき-社会福祉法人ベタニヤホーム60年略史-』の中に記述がある。その作成にあたって、当時関わったベタニヤホーム関係者に調査を行っていたのだ。

      そこには、「簡単に仕切った一軒ずつの炊事場があり、忙しく、疲れていても食事を作って食べることをパウラス先生はお望みのように覚えている」ことや「男の子がいたずらして、その子のおしりをパンとたたいた」「雑談などの時には相手の手や肩に手をじっと置いて目を見つめて話しておられた」「幼稚園の2階の大広間で親子集まってクリスマス、お正月の夜にまぜご飯を食べたこと」「大水(大雨)でホームが水につかり、荷物の山の中の大広間で共同生活をしたこと」といったエピソードが綴られていた。このエピソードから推測するに、建物は母子ホーム、幼稚園とも2階建てであったようだ。

  • 施設内の礼拝から教会誕生へ

    • 日本福音ルーテル教会は、関東大震災後、高齢者、母子の救護のみならず、礼拝も行ってきた。『日本福音ルーテル教会第6回年会報告書』によれば、1924(大正13)年9月より「1週1回ホーム内にて聖書研究並びに礼拝を行い毎日曜日並びに礼拝を守り居れり。朝の集会にはホーム外よりも出席あり」と報告されている。

      礼拝は東京市本所区(現:東京都墨田区)に移ってからも継続され、先ほどの調査では、「クリスマスイブの時、先生方がローソクを手に美しい声で讃美歌を歌いながらホームの廊下を歩いて回っていた」という関係者の明かしたエピソードもあり、キリスト教の布教や精神を伝道していった様子がわかる。その伝道が母子ホームおよび幼稚園の職員、利用者に根付き、1935(昭和10)年に教会学校を基本とした、本所教会(現:聖パウロ教会)が開設された。ただ、当時は本所教会ではなく、伝道所という名称だったようだ。

      1936(昭和11)年の「日本福音ルーテル教会総会記録」に、この年伝道所から昇格したとの記述がある。こうして、母子ホーム、幼稚園(現:保育園)、教会と三位一体の事業を展開することができ、一歩ずつではあるが、運営は軌道に乗りつつあった。

  • 戦争拡大によりA.パウラス帰国

    • その一方で、日本は戦争時代に突入していた。1931(昭和6)年9月の満州事変から始まり、太平洋戦争へと発展した。この戦争では日本はアメリカなどと敵対しており、母国からの要請によりA.パウラスは帰国を余儀なくされた。彼女の帰国により、すべての事業を中断せざるを得ない状況となった。

      責任者が不在となったため、本所教会の内海季秋牧師が代わりの責任者となった。同牧師は本所教会開設後に担当牧師となっており、母子ホームと幼稚園と深いつながりがあった。布教と福祉事業を実践された牧師であり、東京市江戸川区小岩(現:東京都江戸川区北小岩)の牧師館で本所教会の分教会(現:日本福音ルーテル小岩教会)を開設、そののち、牧師夫人とともに、両親が働いている子どもを預かる託児所(現:ルーテル保育園)を開設した。

      1944(昭和19)年末頃からアメリカ軍による日本本土の空襲が本格化、翌1945(昭和20)年から戦略的爆撃となり、大規模な爆撃が始まった。そして、私たちが忘れてはいけない出来事が起こった。

      1945(昭和20)年3月10日未明、アメリカ軍の大型爆撃機が東京下町に飛来した。東京大空襲である。300機を超す爆撃機と38万発(1,700トン)の焼夷弾を投下した。東京、特に下町は木造住宅が密集していたため、あっという間に火が回り、北西の季節風に煽られて炎が広範囲で吹き荒れた。防空壕や人々の避難した公園、隅田川にかかる橋なども炎が飲み込み、わずか一晩で10万人もの犠牲者が出た。その際に施設が全焼、犠牲となった10万人の中には職員と母子家庭20数名の尊い命もあった。

      責任者であった内海季秋牧師は、『ベタニヤホームのはたらき-社会福祉法人ベタニヤホーム60年略史-』の座談会で、東京大空襲前後の母子ホームの様子を語っている。

      「昭和20年3月3日おひなまつりの日、その時は子どもたちも10人くらい来とったでしょうかね。子どもたちに砂糖の配給があるんです。保育園には特別に。その砂糖で僕が、今日はおしるこをみんなで作って食べようといってね。もう分らんですわ。いつ空襲に遇うか、だから、おしるこを作ってみんなで食べた。そしてみんなに僕は言い渡したんですよ。(中略)一人あたり何百円か、今で言えば何万かね。それを等分にわけたんです。(中略)もうわからんですからね。で、みんなクビじゃって言ったんです。ホームにはね。子どもたちは疎開して、みんないないんですよ。小学生は全部疎開しておらんしね。小っちゃい子は皆おらんしね。お母さん達は働いておるし、だからあとはどうするのか考えなかったけど、とにかく皆んなクビじゃって。(中略)皆んなが持ってきて死なば諸共じゃからと。それならば、小岩の方に宿舎を作ろうか、そういう話をしている中に、3月10日、3月の9日ですよ。ええ9日の晩。8日の晩にはホームでね、毎週1回の聖書の勉強をしてね。最後までやったよ」

      戦後、1946(昭和21)年、内海季秋牧師は全焼した施設の焼け跡に立ち、思いをめぐらせた。「焼きただれたレンガ塀の間から、いちじくが芽を出した。周囲はまだ荒れ放題で殺伐とした空気がいっぱい漂っていた。青い芽が一つ、また一ついちじくが芽を出した。ここには戦禍による20余名の犠牲者の流した尊い血がにじんでいる」と語った。

    • 菊川幼稚園(現:菊川保育園)(1924年頃)
      菊川幼稚園(現:菊川保育園)
      (1924年頃)

2

戦後の混乱期を乗り越える

  • ベタニヤホームの再建

    • 終戦を迎え、日本はGHQの占領下に入った。帰国していたA.パウラスが、1947(昭和22)年に来日した。そしてすぐに、内務省から委託された東京都本所区柳原町(現:東京都墨田区江東橋)の地で、施設再建に取り掛かった。土地は焼けてしまったために地主のものになり、地主が所有権を主張していた。そこでA.パウラスはGHQを連れて町会長に交渉に赴いた。多方面からの援助を受け土地を確保、施設再建に向けて動き出したのである。

      戦後の物資不足など困難な状況の中、A.パウラスは自家用車を運転して、精力的に動き回った。

      同年12月、児童福祉法が公布されたことをきっかけに、日本福音ルーテル教会が中心となって、墨田区1柳原町に新しい母子ホーム「本所ベタニヤ母子寮」を新設、1950(昭和25)年2月に児童福祉施設として認可を受けた。また、隣接する「菊川幼稚園」も、「菊川保育園」として1951(昭和26)年1月に認可された。さらに、本所教会は戦前と同じく菊川保育園園舎を利用、乳幼児支援策として、熊本「慈愛園」と同じようにナースリー・スクールを開設した。母子寮と保育園の事業は児童福祉法の下で正式に認められ、代表者にA.パウラスが就任した。

      1 1947(昭和22)年3月15日に北部地区の向島区、南部地区の本所区が一つになった。
  • 社会福祉法人に認可され、新たな出発へ

    • 1951(昭和26)年、社会福祉事業法が公布された。社会福祉事業法が施行された経緯を、『全社協アクションレポート』第198号(2021年8月2日)の特集では次のように記述している。

      「戦争で壊滅的な被害を受けた民間社会事業施設の復興資金不足や生活保護法、児童福祉法、身体障害者福祉法のいわゆる『福祉三法』など国民の窮状に対応して福祉関連法が前後して制定されたため、社会福祉事業全般にわたる基本法を新たに制定し、関連法を体系化しようとする意図があったものと考えられる。こうしたことを受け、厚生省(現:厚生労働省)社会局、参議院厚生委員会、日本社会事業協会(現:全国社会福祉協議会)を中心に基本法案作成に向けた研究・検討が行われた。そして社会福祉事業の全分野にわたる共通事項を定め、既存の福祉立法とあいまって社会福祉事業の公明かつ適正な実施を確保するために同法が施行された」

      公布された同年の12月1日に第1回の理事会が開催され、社会福祉法人設立へ向け、協議を始めた。1952(昭和27)年12月、社会福祉事業法(現:社会福祉法)により、「社会福祉法人ベタニヤホーム」が認可された。同法人の設立役員には、理事長A.パウラスをはじめ、理事6名、監事2名が選任された。

      翌1953(昭和28)年、東京都江戸川区小岩(現:東京都江戸川区北小岩)に「富士見保育園」を開設した。当時は無認可であった。「富士見保育園」は、1937(昭和12)年に「富士見幼稚園」として事業運営を開始していた。その後、太平洋戦争で空襲の危機が迫り、閉園したと『ベタニヤホームのはたらき-社会福祉法人ベタニヤホーム60年略史-』に記されているが、敷地は戦前に確保してあったものだった。この富士見幼稚園(現:保育園)の設置の経緯は、母子ホームの退寮者のため、地域の幼児教育充実を図るためであった。

      それではなぜ、江戸川区小岩であったのか、資料を調べてみると『日本福音ルーテル教会、教会七十年のあゆみ』に本田傳喜牧師の言葉が記されていた。「母子ホームの男子が満18歳になった時には、その家庭は退寮するという規則を設けて、積極的に自主独立の精神を持つように援助すると共に、これらの退寮者のために小岩方面に民間アパートを借り与え、退寮後も必要に応じて支援をした」とのことである。この記述を現在の言葉で表すと「アフターケア」である。

      当時は社会福祉、児童福祉という事業ではなく、「救護」「救済」としての事業であったが、この頃から先駆的な取り組みをしていたことがうかがえた。

      富士見保育園は「社会福祉法人ベタニヤホーム」として3つ目の福祉施設であり、1963(昭和38)年12月に認可を受けた。菊川保育園、本所べタニヤ母子寮(現:母子生活支援施設ベタニヤホーム)、富士見保育園の3施設は現在も事業運営を続けている。

      なお、A.パウラスは東京都のみならず、千葉県にも社会福祉施設を開設している。終戦後、再来日してから居を構えた千葉県市川市国府台に保育園などを設立した。社会福祉事業法制定後、行政区分指導に従って分離し、3つの社会福祉法人(社会福祉法人ベタニヤホーム、社会福祉法人千葉ベタニヤホーム、社会福祉法人チルドレンス・パラダイス)の理事長に就任した。

      日本の社会福祉事業に大きな功績と実績を残したA.パウラスだが、70歳で定年を迎え、母国へ帰国する。28歳で初来日を果たし、戦争により帰国を余儀なくされたが、約42年の間、キリスト教の布教と子どもたちや家族への支援に全力を傾けた。帰国後は私費で2度来日を果たし、設立した施設の整備や改築に努め、1978(昭和53)年9月10日、87歳で天に召された。

    • 戦後の母子寮と菊川保育園(1950年頃)
      戦後の母子寮と菊川保育園
      (1950年頃)
      当時の菊川保育園(1961年)
      当時の菊川保育園
      (1961年)
      改築後の菊川保育園(1970年)
      改築後の菊川保育園
      (1970年)
      富士見保育園旧園舎
      富士見保育園旧園舎
  • 福祉ニーズに対応するために

    • A.パウラス帰国後、「慈愛園」で従事していた長畦すめるが母子寮の新たな責任者となった。長畦は、戦後まもなく建設された「本所ベタニヤ母子寮」と「菊川保育園」の改築計画策定に取り掛かった。当時は木造モルタルのモダンな建物だったようだが、再々補修作業を行うも雨漏りが起きる状況であった。また母子寮では、多子の家庭が多く入所していたことから、六畳一間では、手狭になっていた。そのような状況を改善するために、施設整備計画を策定した。

      まず行ったのは母子寮の生活環境改善だ。東京都共同募金会の補助による母子室・風呂場などの環境を整備した。第二に土地を購入した。アメリカミッションボードから援助を受け、東京都墨田区柳原町(現:東京都墨田区江東橋)の敷地を取得した。これは、土地所有者に当法人の働きがよく理解されていた結果であった。第三は改築計画であった。1963(昭和38)年から施設整備を開始し、1967(昭和42)年3月に竣工した。ほどなく、常陸宮妃殿下が母子寮ご視察に来られたことは当時の職員、在寮者の大きな励みとなった。

      1967(昭和42)年、「菊川保育園」の改築工事を開始し、1969(昭和44)年に竣工した。さらに1974(昭和49)年3月に「富士見保育園」を竣工した。A.パウラス退職後、3つの施設を13年間で全面改築できたことは、様々な支援者に「社会福祉法人ベタニヤホーム」の働きが理解された結果によるものであった。この改築により、戦後、多様化した福祉ニーズに対応できる環境を整えられたのと同時に、大正時代から続く事業をさらに発展させることができ、より多くの方に福祉が届けられる基盤となった。

    • 母子寮 集合写真(1963年)
      母子寮 集合写真
      (1963年)
      母子寮で勉強する様子(1963年)
      母子寮で勉強する様子
      (1963年)
      母子寮登校の様子(1963年)
      母子寮登校の様子
      (1963年)
      当時の母子寮と菊川保育園(1968年)
      当時の母子寮と菊川保育園
      (1968年)
      母子寮改築工事竣工式 本田傳喜牧師(1967年)
      母子寮改築工事竣工式 本田傳喜牧師
      (1967年)
      母子寮改築工事竣工式の様子(1967年)
      母子寮改築工事竣工式の様子
      (1967年)
      常陸宮妃殿下 母子寮ご視察(1968年)
      常陸宮妃殿下 母子寮ご視察
      (1968年)
  • Column

    子どもたちのヒーロー「ハンチョウ」

    本所ベタニヤ母子寮退寮者 山本 健さん

    • 私は1950(昭和25)年頃から約9年間、ベタニヤホーム母子寮にお世話になりました。母親は大変な思いをして生活していたと思いますが、楽しかったことや素敵な人との出会いがたくさんありました。一番に思い起こすのが「ハンチョウ」T.Kさんです。

      当時、熱心な指導員の日高登先生(後の東京老人ホーム泉寮長)がベタニヤホームにボーイスカウトを発足させてくれました。ベタニヤホーム入所の子どもの班と町内の子どもの班と二つの班を作りました。ベタニヤホームの班の班長がT.Kさんでした。年齢は私より5歳お兄さんです。これ以降、子どもたちがT.Kさんのことを「ハンチョウ」という愛称で呼んでいました。「ハンチョウ」は竪川中学校の野球部のエースピッチャーでもあり、「ハンチョウ」が中学3年生の時、猿江公園のグランドで行われた竪川中学校運動会のマラソンで優勝したシーンを今でも鮮明に思い出します。私たちはまだ小学生でしたが、応援に行きました。先導の自転車と一緒に独走状態の一位でグランドに走って入ってきた姿は、手は肘あたりまで石灰の粉で真っ白で、白いハチマキをして走る姿を見てカッコイイと思いました。私もボーイスカウトに入り、「ハンチョウ」にはたくさんのことを教えていただきました。私のその後の生活に大変に役立っています。

  • Column

    菊川保育園とあの頃の私

    菊川保育園卒園児 市野澤 利明さん

    • 私が入園したのは1961(昭和36)年、「上を向いて歩こう」「銀座の恋の物語」が大ヒットした年です。当時はまだ、木造平屋の家々がぎっしり並ぶ東京下町に、二階建ての木造園舎で今思えば横浜や神戸の異人館のような瀟洒なたたずまいの建物と記憶しています。それと当時まだ小さかったからかもしれませんが、園庭がとても広く遊具もあり、遊ぶには事欠かない園庭でありました。先生からは字の読み書き、お遊戯、歌も教えていただき、お絵描きでは何と園に美大の学生さんが来られ、描き方を教わった記憶があります。また、当時初めて外国の方と接した記憶があります。外国から園にピロー先生ご家族がいらしていて、確か私たちと同年齢のご子息がいらっしゃいました。その時、ピロー先生からこんなお話を聞きました。「昔、食べ物がなく、人々がとてもお腹を空かして困っていたことがありました。人々は神に祈りを捧げ、お腹が空いても一生懸命生きました。するとどうでしょう。空から食べ物が降って来ました。人々はそれを食べ、元気に暮らすことができました。」先生は今から思えば困難なことも諦めず生きていこうと幼い私たちに伝えたかったのでは、と思います。青い目をしていたピロー先生がお話しされたことは、還暦を過ぎた今でも鮮明に記憶しております。当時4~6歳の幼子にたくさんの経験を与えてくださった菊川保育園には感謝の気持ちで一杯です。貴園のますますのご発展を心よりお祈り申し上げます。

3

先駆的実践事業の発展

  • 創立60周年の歩みとバーナード・バン・リヤ財団支援事業

    • 関東大震災後に事業を開始した「社会福祉法人ベタニヤホーム」は創立記念日を制定するため、1977(昭和52)年9月17日に理事会を開催した。母子寮集会室にて記念礼拝を開催し、創立記念日を「1923年9月1日」に制定した。役職者一同が集まり、お祝い会が開かれた。

      3つの事業所の全面改築、創立記念日の制定を行ったのち、1983(昭和58)年9月にベタニヤホーム創立60周年記念式典を江東区児童会館(現:江東区こどもプラザ)で開催した。500人もの関係者が集まり、「社会福祉法人ベタニヤホーム」として初めての周年事業であった。

      また創立60年に際し、『ベタニヤホームのはたらき-社会福祉法人ベタニヤホーム60年略史-』を編纂した。この略史には、「社会福祉法人ベタニヤホーム」創設時からの理事会議案、事業報告、決算報告などがまとめられている。さらに、戦中・戦後に関わりの深かった関係者からの座談会や入寮者や職員のエピソードなども掲載された初の周年誌を発行した。

      当時理事長であった林担氏は周年誌で「今この母子寮と二つの保育園の施設に働く私達は、大きな悲劇の時代を乗り越えて来た60年を振りかえって今更の如く感慨を以て見直しをするのである。(中略)この仕事に理解と支援を惜しまれなかった当時の方々、実業界その他永く応援をつづけて下さった数多くの方々の御好意はいつまでも忘れてはならない。ルーテル教会は申す迄もなく、遠く米国を始め海外から賜った各方面の方々の御援助、叉、周辺住民の方の優しい労わりや暖かい思いやりを戴いたことも幾度か、すべては神様の大きな御恩恵として何もかも善意のお支えであったことを心から感謝申し上げたい。(中略)60年は単なる長いだけの回想ではない。私達の施設の任務もその時々の周辺の事情の変化に応じた重点の変遷もある。社会福祉の今日の姿もいつかは少しずつ変わるだろう。(中略)キリストの愛を生かしつつ共に力をかして下さる方々と共に、あとに続く人達の愛と情熱の伴った活動に期待してゆきたいのである」と、60年の年月の重みと感謝と祈り、また今後変革していくだろう時代に向けての激励が語られていた。

    • 創立記念日制定記念会(1977年)
      創立記念日制定記念会
      (1977年)
      創立60周年記念式典(1983年)
      創立60周年記念式典
      (1983年)
    • 1986(昭和61)年1月より、「社会福祉法人ベタニヤホーム」は、オランダのハーグに事務所を構えるバーナード・バン・リヤ財団から約1億円の助成を受けることとなった。これを受け、ベタニヤホームひとり親家庭援助事業を開始した。助成を受けた経緯は次のようなものだ。

      長畦が東京都社会福祉協議会母子福祉部会長時、数年かけて「家族、家庭機能の変化に対応するための母子寮機能に関する調査」をトヨタ財団の支援を受け実施していた。一方、バーナード・バン・リヤ財団はいまだ助成活動を行っていない日本を対象に、社会的に恵まれない子どもの状況やその支援の状況をどう把握するか、トヨタ財団に相談をしていた。調査研究を行っている時期と、トヨタ財団とバーナード・バン・リヤ財団のつながりの中で、「社会福祉法人ベタニヤホーム」に白羽の矢が立った。

      その中で長畦は、バーナード・バン・リヤ財団に乳幼児や学童児などの置かれている社会的背景や、とりわけひとり親家庭の子どもの問題について意見を述べた。また60年余りの歴史を持つ当法人の歴史的背景やこれからの取り組むべき課題について説明し、賛同を受けた。バーナード・バン・リヤ財団の担当者は「国柄に違いがあっても、人はその幼児期にどう扱われたかによって、その後の人生が左右される。この時期に適切な配慮は必要である」と語っており、ベタニヤホームには「従来のプログラムの強化と地域に広く積極的に援助活動を実践することを期待する」と述べた。

      その結果、「母子寮で生活しているひとり親家庭への集中的なソーシャルサービスと教育的プログラムの実践」の事業に、同財団は年間1,000万円程度の援助を決めた。事業を実施した3年間で助成額は4,150万円にまで膨らみ、しかもⅠ期とⅡ期があり、合計6年間(Ⅰ期:1986年~1988年、Ⅱ期1989年~1991年)で約1億円もの援助を受けることとなった。この助成金で始めた実践は、母子寮および保育園における従来プログラムの強化(ハンドベルサークルやトーンチャイムサークル)、サマーキャンプの展開、母親への日常生活援助プログラム(料理教室、パソコン教室、ペアレンティング(親の子育て教育と訓練)プログラムなど)、母子の一泊旅行の実施と多岐にわたった。

      また、職員向けには寮・園内で研修を展開し、支援のマニュアルや日々の記録の取り方、保育園における保育内容などを改定し、保育の質向上のための取り組みを行った。地域への実践では、入寮者や園児の保護者のみならず、親と子の生活文化教室(子育てを中心とした講演会など)の開催や電話相談事業、おもちゃ図書館活動を行った。

      この地域への活動は現在の地域子育て拠点事業的機能を有しており、先駆的な活動であったと思われる。そのほかには、教材の開発(『6歳までの子育てガイドブック』)、子育て世帯へのニーズの調査、文献や論文の収集を行った。

      そして、法人内や地域に向けたプログラムを展開するだけではなく、子どもや家庭支援に携わる様々な施設の職員が主題に関わる理論や体験学習を通して学び合う特徴を持った家庭養育機能支援「子育てワークショップ」という研修会を1989(平成元)年に開始した。この研修の目的は、支援者のスキルを向上させるトレーニングに主眼を置き、当時はまだ珍しかったワークショップ形式で行われた。また、自分自身を振り返ることができる時間を持つ大切さや児童福祉領域で横のつながりを持つこと、子どもや家庭支援に関わる職員同士が語り合うという側面も持ち合わせていた。なお、この研修会は現在も日本キリスト教児童福祉連盟の主催で継続している。

      この日本キリスト教児童福祉連盟は、ベタニヤホームの歴史の中で深いつながりがある組織である。1974(昭和49)年に結成され、キリスト教を事業理念として日本全国の児童福祉施設が連なっている。連盟設立当初から長畦すめるが事務局を担当していた。その任は、2001(平成13)年に現在の「バット博士記念ホーム」に事務局が移転するまで長きにわたって続いた。

    • 親と子の生活文化教室
      親と子の生活文化教室
      子育てワークショップ
      子育てワークショップ
      母子寮施設(1993年)
      母子寮施設
      (1993年)
  • 措置から契約の時代へ

    • 昭和という激動の時代が幕を下ろし、年号が平成に変わった1993(平成5)年9月、ベタニヤホーム創立70周年記念式典が東京都江東区の森下文化センターで開催された。

      60周年からの10年間は、バーナード・バン・リヤ財団からの援助を受け当法人の歴史に残る事業を実施でき、大きな財産となり、職員のスキル向上や地域支援の展開でソフト面は向上をさせた。時代の流れとともに母子寮は大きな岐路に立たされていた。全国的に母子寮の利用者が減少し、廃止に至る母子寮も出ていた。ベタニヤ母子寮もその例外ではなく、1967(昭和42)年に全面改築したままになっていた寮のハード面の整備が求められていた。1984(昭和59)年から1989(平成元)年の間に大修繕を行い、入寮者の生活環境を向上させるために、内装・外装工事やシャワールーム新設などの整備を行った。また、認可定員を30世帯から20世帯に減らし、緊急一時保護事業開始に向け、新たな事業計画を立て実施した。保育園では延長保育を開始して、社会の変化によるニーズに対応する保育を実践し、サービス向上に努めた。

      そして前頁の見出しに記載したように、社会は措置から契約の時代へと変化していく。厚生省(現:厚生労働省)は「昭和26年の社会福祉事業法制定以来大きな改正の行われていない社会福祉事業、社会福祉法人、措置制度など社会福祉の共通基盤制度について、今後増大・多様化が見込まれる国民の福祉需要に対応するため、見直しを行う」とした。これが社会福祉基礎構造改革である。

      社会福祉は戦後の生活困窮者の保護、救済を中心として開始されたものだったが、時代の変化とともに保護、救済とは別に、幅広い領域のサービスが求められてきた。「次の時代」の社会に対応する多様な福祉が展開できるように「社会福祉基礎構造改革」が進められた。個人が尊厳を持ってその人らしい自立した生活が送れるよう支えるという社会福祉の理念に基づくもので、具体的な改革の方向性として、3つの方針が立てられた。「1.個人の自立を基本とし、その選択を尊重した制度の確立」「2.質の高い福祉サービスの拡充」「3.地域での生活を総合的に支援するための地域福祉の充実」がそれらである。「利用者の立場に立った社会福祉制度の構築」のため、社会福祉全体の法が改正されることとなった。

      そうした中、1997(平成9)年6月に児童福祉法が一部改正された。1947(昭和22)年の児童福祉法制定から「母子寮」と法に定められ事業を行ってきたが、この改正で「母子生活支援施設」と名称が変更された。また、目的も「保護をする」ことに特化したものから、「保護するとともに、自立の促進のためにその生活を支援する」ことが明記された。

      1998(平成10)年4月、「本所ベタニヤ母子寮」も「母子生活支援施設ベタニヤホーム」と名称変更を行い、「母子の自立」を支援するための児童福祉施設として、新たな一歩を踏み出した。この改正により、母子生活支援施設には、名称だけではなく、母子指導員(現:母子支援員)の要件(これまで母子指導員は女性のみ就けるものであった)、利用者が暮らす居室平米数、浴室の整備など変更が生じた。また保母の名称も保育士とし、男女共通の名称を使用することとなった。また保育園では、職員の配置基準の変更や保護者が希望する保育園の選択が可能になった。

  • Column

    良きものを新園舎に繋ぎ、「神の宿る家」の継承を願う

    前・富士見保育園園長 和田 真弓さん

    •  A.パウラス宣教師が定年退職で帰国後も10名の園長が歴任し、私は1987(昭和62)年、歴史と伝統のあるベタニヤホームで勤務することになりました。子ども、保護者、職員と共にキリスト教の精神を学び、地域との交流を深めながら思いを受けとめ、より安心できる環境を整えてきました。園長として15年間携わり、その後、松田園長に引き継いで現在に至っております。

      今は亡き長畦すめる先生は、M.パウラス宣教師と慈愛園でご一緒に働いた経験を活かし、ベタニヤホームへ着任され、社会福祉の世界で常務理事という重責を果たされました。当時、オランダのバーナード・バン・リヤ財団をはじめ、国内外多くの財団から支援を受けながら「子ども・親・地域」を推進するという児童福祉のあり方を、私たち職員も学べるよう月一回(土曜日)の貴重な勉強会を与えてくださいました。

      100年を記念すべく富士見保育園もたくさんの方々の協力を得ながら新園舎の竣工が目前です。これまでの園舎は49年の働きに幕を閉じようとしています。数回にわたり「ありがとう会」を開き、2、30年前の退職者や卒園児、保護者が集い、良き思い出の場を持つことができました。

      今までの良きものを新園舎に繋ぎ、「神の宿る家」としてベタニヤホームの働きをいつまでも継承していただきたいと願っています。

4

支援を必要としている人のために

  • 社会のニーズを捉え、事業を拡大

    • 「社会福祉法人ベタニヤホーム」が培ってきた事業実績が行政に認められ、2001(平成13)年4月、墨田区低年齢児待機児対策の一環として、「菊川保育園両国分園」が開設された。定員は0歳児15名、1歳児5名でスタートした。保育園の分園化は1998(平成10)年に「保育所分園設置運営要項」で定められたものであった。

      「母子生活支援施設ベタニヤホーム」も、社会のニーズに合わせた事業や整備を行った。2002(平成14)年に厚生労働省から出された「母子家庭等自立支援対策大綱」では「母子生活支援施設や住宅など自立に向けた生活の場の整備」のもと、母子生活支援施設は、地域で生活する母子への子育て相談・支援や、保育機能の強化、サテライト型などの機能強化が求められた。施策はただちに進められ、支援の強化では、心理療法担当職員を配置(2名)して、プレイセラピーや心理面接の実施など、より高い専門性を持って、母子の自立支援を行った。

      また、「配偶者からの暴力の防止及び被害者の保護に関する法律」(通称:DV防止法)が制定され、ドメスティック・バイオレンス(DV)被害者保護において母子生活支援施設の機能強化が図られ、一時保護施設として位置付けられたため、母子世帯の保護のみならず、女性(単身)の保護も行うこととなった。2002(平成14)年に文京区、多摩市と契約し、緊急一時保護事業の機能を高めた。

      さらに、同年には墨田区から「すみだ子育て相談センター」の開設と管理運営の委託を受けた。「社会福祉法人ベタニヤホーム」がバーナード・バン・リヤ財団の援助を受け、地域の子育て家庭に支援を行ってきたことが評価された結果であった。この事業は、1999(平成11)年に国が少子化対策の一環として、「重点的に推進すべき少子化対策の具体的実施計画(新エンゼルプラン)」として保育サービスの拡充や在宅児も含めた子育て支援の推進が目的とされた。

      「すみだ子育て相談センター」は地域の子育て拠点として位置付けられ、菊川保育園両国分園の2階に設置され、両施設の管理運営をすることで、切れ目のない子育て支援が行えるようになった。墨田区は北部地区にも地域の子育て拠点を開設、2003(平成15)年に2つ目の子育て拠点事業である「文花子育て相談センター」の管理運営も委託された。

    • 菊川保育園両国分園とすみだ子育て相談センター(2002年。2008年に両国子育てひろばに改称)
      菊川保育園両国分園とすみだ子育て相談センター
      (2002年。2008年に両国子育てひろばに改称)
  • 法人理念に基づく事業展開

    • 2003(平成15)年9月にベタニヤホーム創立80周年記念式典を開催した。この記念式典は、社会福祉法人東京老人ホームと合同での開催となった。同老人ホームはベタニヤホーム創設と大きな関わりがある法人である。関東大震災直後から日本福音ルーテル教会が高齢者、母子の救護活動を行って以来の関係であり、いわば兄弟姉妹のようなものである。1924(大正13)年にベタニヤホームは現在の地へ移転することになるが、東京老人ホームは杉並区高円寺へ移転し、1936(昭和11)年より現在の西東京市で各種サービスを行っている。

      さらに、「社会福祉法人ベタニヤホーム」は、80周年を記念して、『ベタニヤホーム憲章』を制定した。そこでは、「キリスト教の精神、愛の実践をする中で、母親、子どもたち、保護者一人ひとりに寄り添い、サービスの資質向上に常に努力し、地域にも開かれたサービスを提供し続けること、また先人たちが創り上げてきたものを継承し、さらに発展させることが私達に課せられた責務である」とした。

      この憲章に則り、新たな保育園を開設した。2007(平成19)年4月より運営を開始した「こひつじ保育園」である。昨今の待機児対策の一環として、墨田区から土地を無償で借り受けることができた。当法人として3つ目の保育園であった。「こひつじ保育園」は当時、墨田区で初の22時15分までの延長保育を実施し、多様化する保育ニーズに対応した。「社会福祉法人ベタニヤホーム」は、この「こひつじ保育園」を加えて、6つの事業所を持つ法人となった。

      また、墨田区から委託された両センターは、「両国子育てひろば」と「文花子育てひろば」と名称を変更し、指定管理者として受託し、長く管理運営を行うことができた。このひろば事業は地域と連携を図り、当法人が持っているノウハウを活かして地域における子育て世帯やDVや児童虐待に対する予防的支援を行うことができた。「両国子育てひろば」は2012(平成24)年3月まで、「文花子育てひろば」は2017(平成29)年3月まで事業を運営し、終了した。

    • 創立80周年式典
      創立80周年式典
      創立記念役職員研修会(2005年)
      創立記念役職員研修会
      (2005年)
      こひつじ保育園
      こひつじ保育園
  • 子どもたちの幸せを祈って

    • 「社会福祉法人ベタニヤホーム」は、子育て支援対策臨時特例交付金(安心こども基金)を使い、2011(平成23)年、老朽化した「菊川保育園」を全面改築した。この安心こども基金は「新待機児童ゼロ作戦」による保育所の整備など、子どもを安心して育てることができるような体制整備を行うものであった。平成20年度から平成22年度までの2年間の事業であったため、迅速に取り組みを進めた。これにより、「菊川保育園」は2棟からなる園舎が特徴的な建屋が完成した。

      この改築前、「母子生活支援施設ベタニヤホーム」の1階を利用して保育を行っていたことがあった。共働き家庭が増え、保育を必要とするニーズが年々増加していたことに対応すべく実施していたものだ。改築後、この目的で「母子生活支援施設ベタニヤホーム」は使われなくなったが、墨田区から新たな保育事業が提案された。それが「ベタニヤホームおひさま保育室」である。2013(平成25)年に開設した。この「ベタニヤホームおひさま保育室」は、通常の保育園とは違い、一時預かり・定期利用保育を目的とした。一時預かりとは、保護者の所用での外出や育児負担の軽減(レスパイト)したい場合などに利用できる保育だ。一方、定期利用保育は、パートタイム勤務や短時間就労などで保育が必要になった保護者が利用できる私的契約の保育である。この事業は2017(平成29)年9月まで行った。

      この一時預かり・定期利用保育事業を終了したことは、法人としての計画であった。それは母子生活支援施設の全面改築があったからである。全面改築から約40年が経過しており、改築当初はモダンな建築物として評価は受けたが、利用者にとって現代の生活ニーズに即していない部分が多くなってきた。利用者数の減少も、ハード面の対応遅れが影響していたと思われる。特に雨漏りや対面式のキッチン、共同の洗濯場などが大きなトラブルの元でもあった。利用者が安心安全な生活が送れるような環境を提供すべく、5か年改築計画を立てた。

      ここで最も懸念されていたことは、仮設の建屋を用意しなければならないことであった。問題の解決までは、かなりの時間を要した。墨田区や関係者に相談・協議を重ね、墨田区の亀沢2丁目に仮設地を無償で借り受けられることが決まった。墨田区や受け入れていただいた町内の方々には感謝である。仮設地が決まったことで、改築計画に沿って進められた。

      改築にあたっては、「3つの柱」となる方針を立てた。「1.地域に開かれた施設として町会や他団体との交流の場の提供(地域交流ホール)」「2.食支援を通じたアフターケアの充実と地域へのアウトリーチ」「3.新しい社会的養育ビジョンに則った里親支援、産前・産後支援」がそれらであった。この柱を軸に、新しい施設が2020(令和2)年4月に竣工した。

      さらに、江戸川区北小岩にある「富士見保育園」も、2022(令和4)年11月より全面改築工事を開始した。保育事業と合わせて、通い慣れた保育園から小学校入学後も子どもや保護者達と関わりを続けられるよう学童保育施設を併設予定である。保育園園舎は2023(令和5)年11月中には利用可能になり、その後園庭などの整備を行って2024(令和6)年の3月に全面完成予定である。

    • 文花子育て相談センター(2003年。2008年に文花子育てひろばに改称)
      文花子育て相談センター
      (2003年。2008年に文花子育てひろばに改称)
      菊川保育園現園舎
      菊川保育園現園舎
      富士見保育園現園舎
      富士見保育園現園舎
    • 創設から100年の歴史を人物や社会的背景、施設の成り立ちなどを中心に記述した。改めて歴史を振り返ると、法の改正や指針制定など、社会福祉を取り巻く現状が変化し続けている。

      社会福祉法人が中心に経営してきた保育事業は民間企業が参入し、少子化もあいまって競争が激化し、保護者から選ばれる施設作りや多様な保育メニューが求められている。

      母子生活支援施設も同様に、施設数や利用者の減少により、多様なニーズに対応するために支援の標準化が求められ、DVシェルター機能を持った地域の子育て支援の拠点となることが求められている。2023(令和5)年4月からこども家庭庁が創設され、「社会福祉法人ベタニヤホーム」が現在、経営している事業所(母子生活支援施設と3つの保育園)は、厚生労働省から管轄が移行された。

      また、2024(令和6)年には児童福祉法が改正される。この改正では、昨今の児童虐待件数の増加(児童相談所での虐待対応件数は令和3年、207,660件)が著しいため、困難を抱える世帯に対し包括的な支援の体制強化などを目的としたものである。新たな資格も検討されており、ますます児童福祉施設が担うべき役割が大きくなっていく中で、私たち「社会福祉法人ベタニヤホーム」の職員一人ひとりがこの100年を迎えるにあたり、創設の思いに触れ、隣人愛の精神を実践していくことがより求められる。それは、変わりゆく社会のあり様の中で、「社会福祉法人ベタニヤホーム」の揺るぎない神と人に仕える「ディアコニア・ミッション」の働きである。

      当法人理事長綱春子は法人の100年をこう締めくくるとともに、100年以後をこう語る。

      「エーネ・パウラス師が大切になさったみ言葉の一つに、法人ベタニヤホームの聖句として伝承されている『わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである』(マタイによる福音書25:40)があります。このみ言葉は、ベタニヤホームの理念である『神と人に仕え、隣人を愛する』というキリスト教社会福祉を実践する私たちの道標となっています。もう一つは、エーネ・パウラス師自身が、愛の実践に励まされたエネルギーの基であったと思われるみ言葉です。『行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです』。(ヤコブの手紙2:17)この二つのみ言葉は、ベタニヤホームの理念を受け継ぐ者として、私たちが心に留めておきたい大切な宝物です」(「ベタニヤホームだより」第141号)

  • Column

    地域福祉の拠点として、いつまでも輝き続けてほしい

    前・こひつじ保育園園長 伊藤 操さん

    • 創立100周年を迎えられました事、心よりお祝い申し上げます。

      こひつじ保育園は、墨田区より待機児解消のため、定員100名、子育て支援事業の一つとして、4時間延長保育(22時15分まで)、休日保育、一時預かり、特別事業の実施の依頼を受け、認可保育園として開園しました。

      働く女性の就職率の向上、就労形態も多様化し、出産後も就労を続ける女性が増えていた時でもありました。安心して仕事と子育ての両立ができ、利用しやすく、利用者のニーズに合った保育サービスを提供できる環境が必要で、行政機関と連携を取りながら整備してきました。

      保育内容については、園内研修を充実させ、「寄り添う保育」を指針に保育の質の向上に努めました。職員一人ひとりの力強い行動が心の支えになり、素晴らしい仲間とともに仕事ができたことは私の誇りです。

      新しい場所での出発でしたが、町内会との交流を深めていく中で、近隣の方々が散歩中の子どもたちに温かい眼差しで見守りをしてくださり、改めてお心遣いに感謝しています。

      これからも種蒔かれた土地に根ざし、地域の子育て支援拠点として愛され、信頼される保育園でありますようお祈りしています。